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2016年8月28日日曜日

獏王を観る「天恩山 五百羅漢寺」(東京都目黒区下目黒)


天恩山 五百羅漢寺の「獏王(白澤)」
撮  影:2016.7月


 現在ここは浄土宗の単立寺院だが、かつては第三の禅宗「黄檗宗」の寺であった。今も隣には黄檗宗の「永寿山 海福寺」があり、隠元国師の像が安置されている。
 京都の深草にある黄檗宗「石峯寺」には、伊藤若冲の墓や彼が下絵を描いた五百羅漢があるが、今は撮影禁止となってしまった。
 ここ目黒の五百羅漢寺の羅漢堂には松雲元慶が托鉢で資金を集め一人で彫り上げた536体のうち、300を超える羅漢像が現存しているが、やはり撮影は禁止されている。観ることはできた。
 どうしても観たいならば、「東京都文化財情報データベース」にある写真を見るか、世田谷山観音寺(世田谷区下馬)に、ここにあるはずの羅漢像九躯があり撮影が許されているので、そちらに行くのがいいだろう。

 しかし、今回の目的は羅漢ではなく、この羅漢堂の入り口にある「獏王」である。
 とはあの悪夢を喰らうとされた空想の動物だが、中国でもこれが「獏」という決定的な姿は決まっていない。強いていえば象ではないが鼻のちょっと長いこういう姿で描かれることが多いのではないか。
水木しげるロードの獏像(Wikipediaより)

 ところが、松雲元慶が彫ったという五百羅漢寺の獏はどうみても「」ではない。「白澤(白沢-はくたく)」のように見える。
 名も獏ではなく「獏王」となっていて、どうやら聖人の前に現れて厄災を教え危難を避ける聖獣「白澤」は、悪夢を食べる獏の中の王であるということらしい。
 それにしてもこのデザインは、顔と左右の腹部に三つずつ、計九つの目がなければ、まるで諸星大二郎の『孔子暗黒伝』に出てきた「開明獣」のようである。
 これらの妖怪(厳密には違うが)たちは、『山海経』や『和漢三才図会』などに描かれたキメラである。


鳥山石燕 『今昔百鬼拾遺』の「白澤」(Wikipediaより)

〈案内板〉獏王(白澤)像
「獏は、人間の悪い夢を食べ、善い夢を与えてくれる動物であると、云い伝えられています。人面牛身虎尾で、額と腹の両側に各三個ずつ、計九個の眼があります。
 日本では、大晦日の夜、善い夢を見るために、帆に獏の字や絵が描かれた宝船の絵を、枕の下に敷いて眠る風習がありました。
 『嬉遊笑覧』には「白澤は獏なり」とあり、『獏』と中国の神獣である『白澤』は同じものと考えられていました。
 この獏王像は、松雲元慶禅師の作で、もとは本尊の後ろに「護法神」として安置されていました。」

 獣身人面という点では「くだん(件)」にも似ているかもしれない。スフィンクスも同じたぐいのものであろう。
 鳥山石燕(1712年1788年)が描いた有名な白澤図以降であれば、二本の角もあるはずなのだが、松雲元慶は石燕の生まれる2年前に入滅しており目にしたはずがない。
 そこで白澤の角は牛のように頭にあるという先入観などにとらわれず背に生やしており、それが斬新さを際立たせている。

 この「獏王」で注目すべき点はその扱いで、「もとは本尊の後ろに「護法神」として安置され」という点であろう。
 まずこういうものが護法善神とされる例を知らない。浄土宗に変わってから本尊は「阿弥陀如来」に替えられたようだが、造られた時は禅宗の黄檗宗なので、元々あった「釈迦如来及両脇侍像 3躯」が本来の本尊だろう。
 釈迦如来ならば、脇侍に獅子に乗った文殊菩薩と牙のある像に乗った普賢菩薩があるはずだが、その本尊の後ろに安置されたということは、後戸に置かれたということで、護法神というよりは「後戸の神(宿神)」として置かれていたととらえるべきだからだ。

 ともあれ、こうしたキメラ(合成獣)のような幻想動物は、何度か日本の古書に登場している。平家物語で源三位入道頼政が射た「鵺(ぬえ)」や、太平記にある「以津真天(いつまで)」などである。
 「鵺」と「以津真天」は同じものなのではないかと思っているが、過去に京都や大阪で鵺や妖怪退治の伝説地をいくつか取材しているので、いずれ紹介していきたいと思う。


羅漢寺への入り口にある松雲羅漢像      
庚申塔(青面金剛と三猿)
五百羅漢寺入り口の不退法尊者像は宇宙人のようだ


秋ノ宮 千代世神社、日本最大級のホオノキ(秋田県湯沢市秋ノ宮字川連)


樹  高 10m
幹  周 10.7m(単幹で日本最大)
樹  齢 500~600年(案内板による)
撮  影 H16年7月
湯沢市指定天然記念物(旧雄勝郡雄勝町)


  ここは湯沢市秋ノ宮川連という。
 『釣りキチ三平』で知られる漫画家の矢口高雄さんは、お隣の横手市(旧増田町)の出身で、映画化の際、ここのすぐ側を流れる役内川もロケ地だったらしい。
    
 湯沢市で川連(かわつら)といえば、旧稲川町の川連漆器が有名であるが、湯沢市川連町は稲川の中心街で、こことは山をはさんで隔てられている。
 轆轤(ろくろ)を使った木地師の産物に漆(うるし)と柿渋を塗り重ねた実用的な漆器が栄えたことは、この地域にそうした山の生活を生業とする人々が暮らしてきたということだ。この川連からそういう技術を持った人々が移住して同じ地名をつけたたということだろうか。
 「かわつら」といえば、歌舞伎の義経千本桜の「河連法眼館」で思い出したが、歌舞伎のルーツ猿楽を演じた猿楽師もまた木地師同様、通常の社会の枠組みの外に置かれた者達であった。

 湯沢市の旧雄勝町地域には千代世神社が2つある。ここ秋ノ宮と、院内銀山で栄えた下院内館山の2箇所だ。
 ここ秋ノ宮の神についてはよくわからなかったが、館山の千代世神社には、木花咲耶姫神(コノハナノサクヤヒメ≒千手観世音菩薩)と天照皇大神が主神として右の社に祀られており、左には相殿というには不自然な山神社があった。
 ここはかつて法領館と呼ばれていたらしい。「ホウリョウ」という地名は北東北全域にあるが、これについてもいずれまとめてみたい。
下院内館山の千代世神社(右:山神社・左:千代世神社)

 
 千代世とは永遠の栄えを暗示しているように思えるが、山の神と長寿といえば、有名な木花之佐久夜姫(コノハナノサクヤビメ)と磐長姫(イワナガヒメ)の姉妹の話がある。

「山の神オオヤマツミは、天孫降臨したアマテラスの孫のニニギノミコトに二人の娘を嫁がせる。
ニニギは美しい妹のコノハナノサクヤビメだけを選び、醜い姉のイワナガヒメを送り返してしまう。
 オオヤマツミは、天孫の花のような繁栄を願いコノハナノサクヤビメを、岩のような長寿を願いイワナガヒメを贈ったのに、これでは天孫の寿命は短くなるだろうと予言した」

 ニニギとコノハナノサクヤビメの3人の子の一人が火遠理命(ホオリノミコト=山幸彦)で、その孫がカムヤマトイワレヒコ(初代天皇の神武)である。
 この物語は、神のように長かった大王(天皇)の寿命が、人のように短くなった理由とされている。

 この話を念頭において、院内の千代世神社の神について見直してみる。
 右の千代世神社のコノハナノサクヤビメの本地仏は、一般的には浅間大菩薩や阿弥陀如来であるが、ここでは千手観音となっている。
 千手観音を本地仏とするのは、イザナギ・カグツチ・菅原道真など、火や雷を持つ荒ぶる性格の男神であることが多い。活火山富士の女神だからということか。それとも本来の神に変えられたということか?

 千代世神社と一緒に祀られた天照皇大神はニニギの祖母なので、皇祖神と美しいコノハナノサクヤビメをあわせて祀ったともみえる。
 では、左に山神社を相殿のようにに並べたのはなぜかというと、オオヤマツミとその長女で山の民にとって女神であったイワナガヒメということなのではないか。

 それにしても院内の千代世神社では山神社は主役ではなかった。本来は山神だけであったものが首座を奪われ、客神というか地主神にされてしまったように見えたのである。
 千代世というからには咲いて散る美しい花の女神よりも、イワナガヒメのほうがふさわしくはないだろうか。

 しかし、ここ秋ノ宮の千代世神社には皇祖神や華やかなコノハナノサクヤビメの気配はない。神室山の山神を主役に据えた、山の生活を生業とする人々の朴訥な信仰が感じられる。ここには、醜くとも山や岩のように変わることのないイワナガヒメの息遣いがある。
 おそらく美しさよりは、「千代世」の文字に本来込められた長寿と子孫の繁栄を願い、山の神としてイワナガヒメだけ(あるいはオオヤマツミと2神)を祀っていた「千代世神社」の本来の形がそのまま残っているように思う。


叶 安産祖神祭と読める
 
羂索で縛ったショケラ(女人)を持つ青面金剛。
妖怪「しょうけら」とはこれから生じたのであろう。
  
 案内板によると、このホオノキについて、神室街道の道標とされたと書かれていたが、街道にあれば全て道祖神とは限らない。
 この場所は特に道の別れる場所でも道に迷う場所でもなく、置かれている石碑や石像を見ると、崩れてわかりにくいが、羂索で縛った人を持つ青面金剛像(庚申信仰)や、子を抱いた観音像など、殺生などの贖罪や子どもの成長を願ったところであるように思う。
 消毒効果のある朴葉に、皆瀬川で釣った魚や山で獲った獲物を包み、神室山という神の住まう山の神に感謝した場所だったのかもしれない。
 
 山の神は醜い女神で、女性の入山は山の神に嫉妬されるとして多くの山で禁じられた。マタギはこの神に海のオコゼを供えた。自分より醜いものをよろこぶだろうというわけである。この醜い山の女神はやはりイワナガヒメの投影だろう。

 他にもイワナガヒメを祀る神社を見ると、阿奈波神社(愛媛県今治市大三島町)などもそうだが、健康と長寿の象徴になったり、女神ということで男根を供えたりしたため、子宝の神になり、そこから女性の下半身の病気の神ともされていったのだろう。

 天孫に選ばれた妹のコノハナノサクヤビメは、富士浅間神社、霊峰富士の女神とされたが、天孫に選ばれなかった姉のイワナガヒメこそ、下々の者たちにくだされた山の神であろうと思われたのかもしれない。
 
 ではイワナガヒメは、やはり不幸だったのだろうか?

 未訪問だが、静岡県伊東市に大室山という神の山がある。ここに大室山浅間神社があり、浅間神社なのに、コノハナノサクヤビメではなく、姉のイワナガヒメが祀られている。
 ここの伝承では、
「姉のイワナガヒメは返されてしまったが、すでに天孫の子を身籠っていたので、当大室山に茅で産屋を設けさせ、中に入ると火を点けさせ、炎の中で火の神を3柱、無事に出産した・・・」
と記紀(古事記・日本書紀)とは異なるその後が語られている。

 大室山、神室山ともに「室」の字が入る。
「室」とは部屋や空間である他に、「御室」のように、神が降臨する場所、祭祀を行う空間、貴人の住居であるとか、正室や側室のように妻(女性)を表したりする。
 女性は「入れ物」であるという考えが根底にあるのならば、大室山や神室山も山の女神の宿るところなのでイワナガヒメを祀るのであろう。
 だからこそ、美しかろうが醜かろうが嫉妬深かろうが、ありがたい我が家の守り神として妻のことも「山の神」と例えるようになったのだろう。

 大室山のイワナガヒメは、炎の中で無事出産し、安産と長寿の神となった。記紀では語られなかったイワナガヒメの幸福なその後を望んだ人々の願いが産んだ物語かもしれない。

 そんなイワナガヒメの霊験のおかげか、このホオノキは日本最大といわれるほどまでに生きた―。

【追記】
ホオノキについて調べてみた。

・「朴の木」の「朴」は、木偏に「卜(うらな)う」と書く。「卜」は、骨などを火で焼き、そこに出た亀裂で占っていたことを示す漢字。
・中国では「朴樹」とはエノキ(榎)のことで、榎は別の木らしい。日本書紀では崇峻天皇代に「朴」をエノキと読ませているが、万葉集の頃にはエノキは、榎と書かれている。
・葉や根から他の植物の生育を抑制する物質を出すらしく、なかなか周囲に草木が茂りにくい。
・葉は大きく殺菌作用を持ち火にも強いため、朴葉寿司や朴葉焼きなど、調理にも用いられた。
・木材は日本刀の鞘に用いられる。
・樹皮や種子は生薬などに用いられた。
・1つの花で雄の時期と雌の時期があり、花の咲く枝と咲かない枝がある。咲く枝はすぐに枯れ、咲かない枝が成長する。
・果実は袋果で、ザクロのようにたくさんの種子が入っている。

 こうしてみると、ホオノキ(朴)は日本人にとって特別な木であったことがわかる。
 花の咲く短命な枝と、咲かないが長命な枝の話は、まさに二人の山の神の娘たちのことのようではないか。
 他の植物を寄せつけないさまは、まるで嫉妬深い妻(山の神)のようではないか。
 そして、ザクロが多産の象徴であったように、ホオノキの実もまた子宝や安産を願う対象にふさわしくはないか。

 千代世神社のホオノキは、いつしか別な木を取り込んでいた。よくある共生樹というよりは、男根が女陰に包み込まれたようにも見える。

 女は嫁として家に入るが、男に養われているように見えて、自分の血を引く子を増やし、実はいつしかその家の真の主(あるじ)になっているのだ。
 そう思わせる山の神(妻)であった。

2016年8月25日木曜日

伊手戸隠神社の「戸隠杉」(岩手県奥州市江刺区伊手)

樹  高 21m
幹  周 5.2m
樹  齢 推定700年(現地案内板より)
撮  影 H16年6月


 伊手戸隠神社と、名称に「伊手(いで)」を冠したのは、ここから遠くない金ケ崎町の鳥海柵にほど近い場所にも、寂れて小さいながら同名の「戸隠神社」があったので、それと区別するためである。
 東北で「戸隠神社」はあまりみかけない。天の岩戸をこじ開けた力の神「手力雄命(タヂカラオ)」を祀る。
 長野の「戸隠神社」と同様に歯痛平癒の「歯神」ともされているのは、重量挙げなどもそうだが歯がしっかりしていなければ力が入らないことと関係があるのだろうか。

 この地には「伊手(いで)川」がある。
以前から「飯豊(いいで・いいとよ)」地名について調べていたので、「伊手」は「飯豊(いいで)」と同じ語源ではないのかと思っていた。

 同じ岩手の遠野市にある早池峰山の麓の早池峰神社近くの「小出(おいで)」や、山形・福島・新潟三県にまたがる飯豊連峰などもそうだが、「イイデ」地名を実際に訪ね歩いてみると、「梨木」地名(梨木平など)もそうだが水の湧き出る場所につけられていることを確信しつつある。

 青森県三戸郡田子町にある飯豊集落には「飯豊梨ノ木」という地名もあり、その裏山の湧水地に山神と不動尊が祀られていた。
 秋田県大館市の巨木「出川のケヤキ」の「出川」は、字面から「でがわ」だと思われているが、実際に現地に住む者は出川を「いでがわ」と呼んできた。
 また、東京都府中市にある、「くらやみ祭」で有名な武蔵総社「大國魂神社」で、神輿が鳥居をくぐり出発する際には「お出で」と宣(のたま)う。

 この伊出戸隠神社の鳥居の脇には九頭龍大神を祀る水場があり、案内板に、かつてここに「飯豊(いんで)館」があり、「伊出川」の語源がやはり「飯豊」であることについて触れられていた。
 「イイデ・オイデ」地名には古来、湧き出る水とその神を迎える深い意味合いがこめられていたことが察せられる。

東北の数多くの神社がそうであるように、この神社も坂上田村麻呂創建とされているが、ここから遠くないところには、実際に田村麻呂が802年(延暦21年)に築いた鎮守府「胆沢城(いさわのき)」があることから、ここの田村麻呂伝承に関してはあながち嘘だともいいきれない。 
 そもそもここに大杉があることを教えてくれたのは、午前中に行った隣の金ケ崎町の「鎮守府八幡宮」(「姥杉」がある)・・・胆沢城のあった地にある由緒ある神社の宮司さんなのであった。
 胆沢城に全国各地から集められた人々が駐屯していたことは古書にも書かれており、江刺郡の郷名として「信濃郷」が見える。岩手県神社庁によると、
「胆沢城築城にあたり、諸国から集めた浪人の中に、信濃(長野県)出身の人々が故郷の戸隠神を勧請したものといわれる。古代の江刺郡4郡で、伊手村は信濃郷に擬定されている」とある。
 信濃から来た人々がここに「イイデ」地名を持ち込んだのかもしれない。

 当時、胆沢郡と江刺郡までが朝廷の支配の及ぶ最北であったことから、これより北がまさに蝦夷の国であった。


長い階段を登ると、まず拝殿に向かって左側に見える巨木が「戸隠杉」である。上部で二股に分かれ、堂々とそびえていた。

この「戸隠杉」に智福愛宕神社(藤里観音堂)の2本のスギとカヤ、それに巨木の里(上住郷の榧内川目 稲荷神社の千本桂白山杉山祇桂才の神のサワラ)をまわるコースは、巨木案内をするにはうってつけだろう。

 それにしても、平成の大合併で誕生した「奥州市」という地名については抵抗を拭えない。奥州平泉の人気に乗じて観光の集客を期待して名付けたのだろうか?
 しかし、「州」も「市」も行政区分のことなので、いわば「岩手県市」と言うようなものであって失笑を禁じ得ない。