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2016年9月3日土曜日

東の横綱「東根の大ケヤキ」と南朝小話(山形県東根市本丸南)

樹  高 28m
幹  周 16m(日本最大)
樹  齢 1,500年以上(案内板による)
撮  影 H13年4月
国指定特別天然記念物


 現在日本一とされているケヤキが、山形県東根市の東根小学校にそびえている。
 住所が「東根市本丸南1-1-1」となっており、東根城(小田嶋城)の本丸であったこと、この地の住所を定める際、ここを基準としてはじめられたことに気づく。
 住所で1番というのは、その地域で有名な神社であることが多いが、ここ東根においてはこの木こそが、長らく地域住民の信仰と誇りのシンボルであったのだろう。

 ケヤキは大きくなると幹が空洞(うつろ)になり、樹勢が衰える。うちの地元大館の「出川のケヤキ」もそうだった。わたしが小学生の頃は、まだ元気だったが、今は主木が枯れ、みる影もない。
 この東の横綱「東根の大ケヤキ」にしても、西の横綱「野間の大ケヤキ」も、過去に枯死する可能性があったが、樹木医や地域の人々の世話により息を吹き返してきた。そういう努力を忘れてはならない。
 全国各地の巨木の中でも「東根の大ケヤキ」の一番素晴らしいところは、東根小学校の敷地内にあり、いまも子どもたちが毎日触れることができることだろう。
 平屋の家屋しかなかった時代からこの丘に立ち、城が建てられ滅び、校舎が建ち、幾度か建てなおされ、この学び舎からたくさんの子どもたちが巣立って行くのを見続けてきた木だ。

 〈東根小学校校歌〉
―我が学舎の守護とて 其の名も高き大欅 そびゆる影を仰ぎつつ いや栄えゆく東根校

 巨大な壁のような体躯は、ただ長い年月をそこに在り続けたという事実を体現している。この生命力に敬意を払わずにはいられない。

 ・「東根」は、「東」の「ね(高地)」ということで、「最上川の東の高所」だという。(市町村名語源辞典
 ・大昔、村山盆地の真ん中に「藻が湖(もがうみ)」という大きな湖があり、この湖の東に連なる奥羽山脈の麓に最も早く拓けたところを東根と呼び、この地名が付けられたといわれている。なお、最上川対岸の寒河江市には西根という地名もある。(Wikipedia
 ⇒「藻が湖(もがうみ)」とは、「最上」の語源だろうか?


ここに東根城(小田嶋城)を築城し小田島荘として治めた小田島長義は南北朝時代の人で、南朝方だったらしい。その後、小田嶋氏はこの地を追われ新庄を拓(ひら)き、さらに北へ向かったらしいが、ここ山形では行方が知れないという。

 奥六郡(岩手県北部)に、源頼朝ともつながりの深い和賀氏の氏族として小田嶋氏が見え、現在はたぶん南部(旧盛岡藩領)でしかみかけない名字となっている。
 童謡『おもちゃのマーチ』などの作曲として知られる「小田嶋樹人」も旧南部領の秋田県鹿角市出身である。孫が仙台におり、本人と偶然話をしていて知った。
 そういえば、南部氏も北畠氏の家来筋で南朝方であった。
 東根から10数km南下した天童市には北畠親房をまつる「天童 北畠神社」があった。北畠氏の子孫もまた北上し、青森県弘前の北に浪岡北畠氏として血脈を残した。

▲山形県天童市「北畠神社」(天童市荒谷小才勝)
 高橋克彦の「南朝迷路」によると、青森県弘前市の東、黒石市大川原地区には、後醍醐天皇の子、宗良親王を助けた信州の伊那谷にある大河原の豪族、高坂氏縁の人々が落ち延び、大河原(現大川原)という故郷を偲んだ地名をつけ、後醍醐天皇の命日に「大川原の火流し」という祭りを行っているという。

 小田嶋氏の氏族が秋田県鹿角市(旧南部領)にまで住んだのならば、黒石は山越えすればすぐである。
 隣の秋田県大館市には南朝三代の長慶天皇が開発したと伝わる長慶金山跡や、楠木正成を迎えに行ったという後醍醐天皇の側近、万里小路藤原藤房卿の伝説が残る松原補陀寺跡がある。
 小田嶋氏もまた北東北の南朝縁の氏族と合流したのだろうか。
 
 小田嶋城跡から最上川と山形盆地を見下ろしてきた東根の大ケヤキは、そうした小田嶋氏と南朝復興の夢の跡をも後世に伝えている。

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