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2016年9月3日土曜日

玄奘三蔵霊骨塔―「華林山 最上院 慈恩寺」(さいたま市 岩槻区表慈恩寺)

撮  影 H16年1月

 玄奘三蔵の骨が日本にある。孫悟空、沙悟浄、猪八戒と天竺へ向かったあの三蔵法師だ。
 もちろん『西遊記』は玄奘が著した『大唐西域記』をもとに、1,000年ほども後に成立した空想小説だが、過酷なシルクロードの旅は紛れもない事実である。 


経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に通じている僧侶は「三蔵法師」と呼ばれ、名前に「三蔵」を付して尊称する。特に、インドから中国へ大量の経典を持参した人や、経典を大量に訳した訳経僧に付した。著名な三蔵法師としては、玄奘三蔵がいる。―Wikipedia

とあるように、「三蔵」は固有名詞ではない。
 日本人で「三蔵」の資格を有した僧は、平安時代の法相宗(玄奘の弟子が開祖)の霊仙(りょうせん)ただ一人である。
 霊仙は、空海最澄と同じ第十八次の遣唐使船で渡海したが、ついに唐から戻ることがかなわなかった。
 唐で梵語(サンスクリット語)の経の翻訳をして「三蔵」となったほどの学才である。もし戻っていれば日本の仏教史が大きく変わっていたかもしれない。
霊骨塔

 聖者の骨を舎利と呼ぶ。仏舎利塔は本来は釈尊の遺骨(の粒)を分骨して納めたものだが、一人の人間の骨なので量には限りがあり、仏舎利塔にあるのは水晶だったりもするという。
 仏舎利についても、ある寺では何年かおきに取り出して数えるが、その粒の数が世の盛衰により増えたり減ったりするとかいろいろ興味深い話もあるらしい。

 法隆寺の仏舎利すらも本物ではないようで、日本にある仏舎利で本物の釈尊の骨であることがほぼ確実といわれるのは、シャム(現在のタイ)国王から友好のしるしに拝受したものがあるという、名古屋市千種区法王町にある『覺王山 日泰寺』(旧 日暹寺・・・シャム(暹羅)がタイ(泰)になり改めた)のみともいわれる。

 さて、その仏舎利のように玄奘の骨が日本に伝わっているのである。その経緯は、大日本帝国時代の南京までさかのぼる。
 慈恩寺のHPにはこうある。
 昭和17年12月、第二次世界大戦のさなか、南京を占領していた日本軍が、中華門外に駐屯し、稲荷神社を建立しようということになり丘を整地していた時に、石棺を発見しました。
石棺には宋の天聖5年(1027)に三蔵法師の頂骨が演化大師可政によって長安から南京にもたらされたことが記されていました。日中両国の専門家が調査の結果、玄奘三蔵法師の頂骨そのものであることが確認されました。
中国では偉大な人物や国王の墓に、数々の価値ある副葬品が収められるのが通例であり、盗掘が行われ、墓が荒らされたままであったことが南京への葬られたことの原因と考えられます。
発見の翌年、頂骨は仏像・銀・錫製の箱等の副葬品と共に南京政府に還付されました。翌昭和19年には、南京玄武山に玄奘塔が完成し、盛大な式典が行われました。

玄奘塔完成の式典の際、「法師は仏教の一大恩人であり、日中の仏教徒が永遠に法師の遺徳を大切にしよう」という趣旨で分骨され、日本仏教徒代表の倉持秀峰氏に手渡されました。こうして霊骨は日本にもたらされることになりました。
来日した霊骨は当初、仏教連合会の置かれていた東京、芝の増上寺に安置されましたが、第二次世界大戦末期、東京では空襲が始まっており、万が一灰燼に帰することがあってはならないということで、一時は倉持会長の住職寺である蕨市三学院に仮安置されました。

しかし、三学院も東京に近く、安全が計り難いということで再度、日本仏教連合会では疎開先を検討し、慈恩寺に仮奉安することになりました。当山の第五十世大島見道住職が、日本仏教会の事業部長であったこと、慈恩寺が平安時代に慈覚大師の開基であり、三蔵法師ゆかりの長安の大慈恩寺からその名をとって慈恩寺と名付られた由来もあり、歴史と格式のある寺院だったことが慈恩寺に奉安された理由と考えられます。
昭和19年12月、寛永時に於いて日本仏教連合会主催の下に、日中各界の有志の臨席を得て、法要を行った後、慈恩寺檀信徒の恭迎の中、慈恩寺に奉安されました。

昭和20年に我が国は終戦を迎え、仏教連合会では、いわゆる疎開先であった慈恩寺から正式な奉安の地を決することになっていましたが、国民の生活も安定しない時勢でありましたので、そのまま昭和21年を迎えました。しかし、戦時中に中国政府から贈られた霊骨ではありますが、戦時下の事で、このままで良いのか・・という問題が提起されました。
この頃、慈恩寺に寄宿しておられた仏教連合会顧問の水野梅暁師が新中国の蒋介石主席と親交もあり、主席の意向をお伺いすることになりました。
昭和21年12月、霊骨奉安3周年記念法要の際、蒋介石主席の意向が伝えられました。
「霊骨は返還に及ばないこと、むしろ日中提携は文化の交流にあり、日本における三蔵法師の遺徳の顕彰は誠によろこばしいことであり、しかも、奉安の地が法師と何等かの因縁の地であるからは、この地を顕彰の場と定めては」
との意向であり、こうして正式に慈恩寺の地に霊骨塔建設が決定したのであります。

 つまり元々伝承として、盗掘を恐れ長安から南京に玄奘の「頭骨」が遷されたことは知られていたが、南京に駐留していた日本軍が掘り当てたというわけである。
 日本に分骨されたものが、奈良の薬師寺や台湾の日月潭にある玄奘寺などにもさらに分骨されている。

 玄奘が長安の大慈恩寺から天竺(インド)へ向かい、『大般若経』(般若心経はこのエッセンス的な部分)を持ち帰り翻訳したことは結構知られているが、遺骨の一部が日本にももたらされたことやその理由はあまり知られていないのではないか。
 宗派を超えた存在なので、このことはもっと知られていいことではないかと思う。

〈余談〉
 玄奘以前にサンスクリット語から翻訳された経典を「新訳」と呼び、最初の三蔵法師である「鳩摩羅什」による翻訳のものを「旧訳(くやく)」と呼ぶらしいが、これは例えば観音菩薩を「観世音菩薩」とした旧訳に対して、玄奘が「観自在菩薩」と訳したことなどの違いがある。

 関東のあちこちで見かける「寛永寺灯籠」がここにもあった。明治になり、徳川の菩提寺であった広大な東叡山寛永寺が、上野恩賜公園として整備され寺域が大幅に縮小された際、各地の大名などがこぞって寄進していた膨大な量の石灯籠を各地に譲り渡したらしい。
 今も公園内の上野東照宮清水観音堂などにたくさん残っている。
 都内を歩いているとこの特徴のある形の石灯籠をよく見かけるが、埼玉まできていたとは・・・。

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