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2016年9月21日水曜日

日本一のクロビイタヤ―七座神社(秋田県能代市二ツ井町小繋字天神道上)

撮  影 H16年7月―9月
カエデ・モミジなどの仲間(カエデ属)が作り出す深い森の陰影(7月調査時)
今回確認された中で最大の幹周を持つクロビイタヤ(2.63m)

 Facebookと重複するが、所属している東北巨木調査研究会で調査していたカエデ属の希少種「クロビイタヤ」の群生地が秋田県内にみつかったため、マスコミへの公開調査と発表が現地で行われ、スタッフとして参加した。
 
2016年9月20日
秋田県能代市二ツ井町のクロビイタヤに関するニュース①
・秋田朝日放送トレタテ18:15~
秋田県能代市二ツ井町のクロビイタヤに関するニュース②
・NHK秋田ニュースこまち18:10~

 東北巨木調査研究会が調査してきた秋田県能代市二ツ井町(旧山本郡二ツ井町)の七座山周辺のクロビイタヤ(環境省レッドリストランク:絶滅危惧II類)について、調査測定・発表が行われました。
きみまち公園頂上あたりから臨む七座山と七座神社社叢(7月調査時)
7つの峰を持つ七座山と対岸の七座神社の位置関係図

 マスコミにも呼びかけたところ、読売新聞・毎日新聞・秋田魁新報社それに地元の北羽新報社と、NHK秋田放送局、秋田朝日放送による取材がありました。
 当会からは会長の高渕英夫と、樹木医でもあり、クロビイタヤの繁殖も手がけている釜淵一知理事、小沢純二理事、岡本喜栄作理事他、青森・秋田両県の会員数名が参加しました。
 生物多様性論・保全生態学の専門家として、筑波大学准教授で、「希少樹種クロビイタヤ(カエデ属)の遺伝構造と景観特性との関係」を研究テーマのひとつとされている、佐伯いく代准教授にも参加いただきました。

対岸の七座山から見た七座神社の社叢
米代川は、雄物川と並び秋田県最大にして東北を代表とする河川のひとつですが、この北緯40度が生態系の分岐のラインであることはあまり知られていないように思います。
 わたしの知る限りでは、日本ではウグイと並んでよく知られるオイカワという魚は日本海側では雄物川が最北で、米代川では見かけませんし、大館市はニホンザリガニ生息地の最南端です。
 また国土交通省が発表した調査資料によると、米代川の流域に生息する両生類の種類は国内で最も多いことが発表されています。(※全国31河川調査中1位:「平成15年度河川水辺の国勢調査について」)


 今回保存状態の良好なクロビイタヤの群生地として確認された、七座山麓と対岸の七座神社の社叢は、すぐ上流で森吉山のある阿仁・森吉地域から流れる阿仁川が、小猿部川と小阿仁川を取り込み(このことから合川という地名が起こった)、米代川と合流し流量が増大する地点で、このすぐ下流のきみまち阪で、白神山地から流れる藤琴川と粕毛川も取り込むという、おそらく1000年2000年単位で見ても水が枯れることがなかっただろうと推測される場所です。
七座神社と豊かな社叢を守り続けてきた嶺脇勉宮司。拝殿脇の神木もクロビイタヤ

 佐伯准教授も、各地にわずかに点在するこの樹種が生きながらえた地域の特徴として、
 ①湿潤であること(水の補給が常に確保されうること)
 ②寒冷であること
 ③側に河川などがある緩やかな傾斜地などであること
などを挙げられていました。
佐伯いく代筑波大学准教授
また、この七座山を越えた仁鮒地区の最奥には全国でも最大級の天然杉の保護区である「仁鮒水沢スギ植物群落保護林」があることや、北には白神山地の南の玄関口である藤里町があることなど、まだまだ多様な生態系が残されている可能性をわたしたちに再認識させてくれたのではないかと思います。
 クロビイタヤという樹種じたいは、杉やケヤキのように巨木と呼べるほど大きく育つ木でもなければ、長い寿命を持つ木でもありませんが、当会会長の高渕も、
「このことが多くの人に知られることによって、関心の輪が広がり、少しでも希少な樹木を維持していくことの大切さが理解されることにつながることこそがわれわれの一番望んでいることです」
と語ってくれました。
高渕英夫「東北巨木調査研究会」会長

▲測定状況。目通り(地上)1.3mの幹周を測定
クロビイタヤの翼果(種)の形状について説明する釜淵一知理事(樹木医)

▲一般的なイタヤカエデの翼果(左)と、ブーメランのような形状のクロビイタヤの翼果

 こういう活動に参加できたことをうれしく思います。参加した関係者の皆様ありがとうございました。

※報道では、14本のクロビイタヤと紹介されていますが、マスコミが去った後に継続して調査をしたところさらに1本確認されましたので、正しくは七座神社社叢に11本、対岸に4本で、計15本を確認しました。
  

七座神社社務所裏にある境内で最大のケヤキ(幹周6.3mを確認)をはじめ、広大な社叢には他にも貴重な樹種が数多い。


〈七座神社について〉

 七座天神ともいわれ、現在は日本書紀にある神代七代の十一柱七代の神のうち、最初の三神
国常立尊、国狭槌尊、豊斟渟尊
に加え、
伊弉諾尊・伊弉冉尊・菅原道真尊
を祀っている。

 日本書紀にある斉明天皇4年に阿倍比羅夫が蝦夷懐柔のために訪れた際に、齶田(アギタ)・渟代(ヌシロ)・肉入籠(シシリコ)火内(ひない)―それぞれ秋田・能代・綴子(北秋田市鷹巣)・比内(大館市)といわれている―などの地名が登場するが、この七座神社にも船を繋いだという。

 十和田湖・八郎潟・田沢湖の3つの湖の創世を伝える秋田の国引き神話「三湖伝説」の主人公、八郎太郎が米代川を堰き止めようとして七座天神に阻止された、また米代川の水中の巨石は八郎が投げ入れたものだなどの伝説も伝わる。

 また、織田信長の次男、織田信雄が秋田に流された際に帰還を祈願したともいわれる。(『伊頭園茶話』久保田藩士 石井 忠行 著)

2016年9月3日土曜日

玄奘三蔵霊骨塔―「華林山 最上院 慈恩寺」(さいたま市 岩槻区表慈恩寺)

撮  影 H16年1月

 玄奘三蔵の骨が日本にある。孫悟空、沙悟浄、猪八戒と天竺へ向かったあの三蔵法師だ。
 もちろん『西遊記』は玄奘が著した『大唐西域記』をもとに、1,000年ほども後に成立した空想小説だが、過酷なシルクロードの旅は紛れもない事実である。 


経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に通じている僧侶は「三蔵法師」と呼ばれ、名前に「三蔵」を付して尊称する。特に、インドから中国へ大量の経典を持参した人や、経典を大量に訳した訳経僧に付した。著名な三蔵法師としては、玄奘三蔵がいる。―Wikipedia

とあるように、「三蔵」は固有名詞ではない。
 日本人で「三蔵」の資格を有した僧は、平安時代の法相宗(玄奘の弟子が開祖)の霊仙(りょうせん)ただ一人である。
 霊仙は、空海最澄と同じ第十八次の遣唐使船で渡海したが、ついに唐から戻ることがかなわなかった。
 唐で梵語(サンスクリット語)の経の翻訳をして「三蔵」となったほどの学才である。もし戻っていれば日本の仏教史が大きく変わっていたかもしれない。
霊骨塔

 聖者の骨を舎利と呼ぶ。仏舎利塔は本来は釈尊の遺骨(の粒)を分骨して納めたものだが、一人の人間の骨なので量には限りがあり、仏舎利塔にあるのは水晶だったりもするという。
 仏舎利についても、ある寺では何年かおきに取り出して数えるが、その粒の数が世の盛衰により増えたり減ったりするとかいろいろ興味深い話もあるらしい。

 法隆寺の仏舎利すらも本物ではないようで、日本にある仏舎利で本物の釈尊の骨であることがほぼ確実といわれるのは、シャム(現在のタイ)国王から友好のしるしに拝受したものがあるという、名古屋市千種区法王町にある『覺王山 日泰寺』(旧 日暹寺・・・シャム(暹羅)がタイ(泰)になり改めた)のみともいわれる。

 さて、その仏舎利のように玄奘の骨が日本に伝わっているのである。その経緯は、大日本帝国時代の南京までさかのぼる。
 慈恩寺のHPにはこうある。
 昭和17年12月、第二次世界大戦のさなか、南京を占領していた日本軍が、中華門外に駐屯し、稲荷神社を建立しようということになり丘を整地していた時に、石棺を発見しました。
石棺には宋の天聖5年(1027)に三蔵法師の頂骨が演化大師可政によって長安から南京にもたらされたことが記されていました。日中両国の専門家が調査の結果、玄奘三蔵法師の頂骨そのものであることが確認されました。
中国では偉大な人物や国王の墓に、数々の価値ある副葬品が収められるのが通例であり、盗掘が行われ、墓が荒らされたままであったことが南京への葬られたことの原因と考えられます。
発見の翌年、頂骨は仏像・銀・錫製の箱等の副葬品と共に南京政府に還付されました。翌昭和19年には、南京玄武山に玄奘塔が完成し、盛大な式典が行われました。

玄奘塔完成の式典の際、「法師は仏教の一大恩人であり、日中の仏教徒が永遠に法師の遺徳を大切にしよう」という趣旨で分骨され、日本仏教徒代表の倉持秀峰氏に手渡されました。こうして霊骨は日本にもたらされることになりました。
来日した霊骨は当初、仏教連合会の置かれていた東京、芝の増上寺に安置されましたが、第二次世界大戦末期、東京では空襲が始まっており、万が一灰燼に帰することがあってはならないということで、一時は倉持会長の住職寺である蕨市三学院に仮安置されました。

しかし、三学院も東京に近く、安全が計り難いということで再度、日本仏教連合会では疎開先を検討し、慈恩寺に仮奉安することになりました。当山の第五十世大島見道住職が、日本仏教会の事業部長であったこと、慈恩寺が平安時代に慈覚大師の開基であり、三蔵法師ゆかりの長安の大慈恩寺からその名をとって慈恩寺と名付られた由来もあり、歴史と格式のある寺院だったことが慈恩寺に奉安された理由と考えられます。
昭和19年12月、寛永時に於いて日本仏教連合会主催の下に、日中各界の有志の臨席を得て、法要を行った後、慈恩寺檀信徒の恭迎の中、慈恩寺に奉安されました。

昭和20年に我が国は終戦を迎え、仏教連合会では、いわゆる疎開先であった慈恩寺から正式な奉安の地を決することになっていましたが、国民の生活も安定しない時勢でありましたので、そのまま昭和21年を迎えました。しかし、戦時中に中国政府から贈られた霊骨ではありますが、戦時下の事で、このままで良いのか・・という問題が提起されました。
この頃、慈恩寺に寄宿しておられた仏教連合会顧問の水野梅暁師が新中国の蒋介石主席と親交もあり、主席の意向をお伺いすることになりました。
昭和21年12月、霊骨奉安3周年記念法要の際、蒋介石主席の意向が伝えられました。
「霊骨は返還に及ばないこと、むしろ日中提携は文化の交流にあり、日本における三蔵法師の遺徳の顕彰は誠によろこばしいことであり、しかも、奉安の地が法師と何等かの因縁の地であるからは、この地を顕彰の場と定めては」
との意向であり、こうして正式に慈恩寺の地に霊骨塔建設が決定したのであります。

 つまり元々伝承として、盗掘を恐れ長安から南京に玄奘の「頭骨」が遷されたことは知られていたが、南京に駐留していた日本軍が掘り当てたというわけである。
 日本に分骨されたものが、奈良の薬師寺や台湾の日月潭にある玄奘寺などにもさらに分骨されている。

 玄奘が長安の大慈恩寺から天竺(インド)へ向かい、『大般若経』(般若心経はこのエッセンス的な部分)を持ち帰り翻訳したことは結構知られているが、遺骨の一部が日本にももたらされたことやその理由はあまり知られていないのではないか。
 宗派を超えた存在なので、このことはもっと知られていいことではないかと思う。

〈余談〉
 玄奘以前にサンスクリット語から翻訳された経典を「新訳」と呼び、最初の三蔵法師である「鳩摩羅什」による翻訳のものを「旧訳(くやく)」と呼ぶらしいが、これは例えば観音菩薩を「観世音菩薩」とした旧訳に対して、玄奘が「観自在菩薩」と訳したことなどの違いがある。

 関東のあちこちで見かける「寛永寺灯籠」がここにもあった。明治になり、徳川の菩提寺であった広大な東叡山寛永寺が、上野恩賜公園として整備され寺域が大幅に縮小された際、各地の大名などがこぞって寄進していた膨大な量の石灯籠を各地に譲り渡したらしい。
 今も公園内の上野東照宮清水観音堂などにたくさん残っている。
 都内を歩いているとこの特徴のある形の石灯籠をよく見かけるが、埼玉まできていたとは・・・。

東の横綱「東根の大ケヤキ」と南朝小話(山形県東根市本丸南)

樹  高 28m
幹  周 16m(日本最大)
樹  齢 1,500年以上(案内板による)
撮  影 H13年4月
国指定特別天然記念物


 現在日本一とされているケヤキが、山形県東根市の東根小学校にそびえている。
 住所が「東根市本丸南1-1-1」となっており、東根城(小田嶋城)の本丸であったこと、この地の住所を定める際、ここを基準としてはじめられたことに気づく。
 住所で1番というのは、その地域で有名な神社であることが多いが、ここ東根においてはこの木こそが、長らく地域住民の信仰と誇りのシンボルであったのだろう。

 ケヤキは大きくなると幹が空洞(うつろ)になり、樹勢が衰える。うちの地元大館の「出川のケヤキ」もそうだった。わたしが小学生の頃は、まだ元気だったが、今は主木が枯れ、みる影もない。
 この東の横綱「東根の大ケヤキ」にしても、西の横綱「野間の大ケヤキ」も、過去に枯死する可能性があったが、樹木医や地域の人々の世話により息を吹き返してきた。そういう努力を忘れてはならない。
 全国各地の巨木の中でも「東根の大ケヤキ」の一番素晴らしいところは、東根小学校の敷地内にあり、いまも子どもたちが毎日触れることができることだろう。
 平屋の家屋しかなかった時代からこの丘に立ち、城が建てられ滅び、校舎が建ち、幾度か建てなおされ、この学び舎からたくさんの子どもたちが巣立って行くのを見続けてきた木だ。

 〈東根小学校校歌〉
―我が学舎の守護とて 其の名も高き大欅 そびゆる影を仰ぎつつ いや栄えゆく東根校

 巨大な壁のような体躯は、ただ長い年月をそこに在り続けたという事実を体現している。この生命力に敬意を払わずにはいられない。

 ・「東根」は、「東」の「ね(高地)」ということで、「最上川の東の高所」だという。(市町村名語源辞典
 ・大昔、村山盆地の真ん中に「藻が湖(もがうみ)」という大きな湖があり、この湖の東に連なる奥羽山脈の麓に最も早く拓けたところを東根と呼び、この地名が付けられたといわれている。なお、最上川対岸の寒河江市には西根という地名もある。(Wikipedia
 ⇒「藻が湖(もがうみ)」とは、「最上」の語源だろうか?

2016年9月2日金曜日

西の横綱「野間の大ケヤキ」と「蟻無宮」(大阪府豊能郡能勢町野間稲地)

樹  高 27.37m
幹  周 13.01m(西日本最大)
樹  齢 約1,000年
枝  張 39.3メートル×36.2メートル(「けやき資料館」による)
撮  影 H13年5月
国天然記念物


 この木は西日本で一番大きいといわれているケヤキの大木である。全国のケヤキの巨木ランキングの幾本かは息も絶え絶えなことを考えると、元気な木としては東の横綱「東根の大ケヤキ」(山形)や、「三恵の大ケヤキ」(山梨県)に次ぐものと思われる。大阪の全樹種の中でも2番めの大きさらしい。
 驚くのはその枝張りの範囲で、「人里の巨人たち」によると1,023平米は、620畳敷に匹敵するそうである。
 国道447号のバイパスが通る以前から、花折街道(能勢街道)を旅して、このケヤキの木陰で涼をとった人の数はいったいどれほどになるのだろう。

 車で豊中・池田から猪名川に沿って能勢街道を北上して気づくのは、すぐに兵庫県の川西市になり、2kmほどで大阪府豊能郡になり、1.5kmほどで大ケヤキがあり、また5.5kmほど進むと京都府亀岡市に入ってしまうということだ。
 つまり、兵庫県の東の端と京都の西の端に、大阪府の豊能郡(豊能町と能勢町)がくい込んでいるのである。

 ここは平安時代の末期に源氏が栄えたところだ。
 10kmほど南には多田の庄(兵庫県川西市)があり、そこには武家の源氏三社のひとつ「多田院(多田神社)」がある。
 源満仲を祖とする摂津源氏(多田源氏)が居を構えた地で、長男の源頼光頼光四天王渡辺綱 坂田金時卜部季武碓井貞光)と共に大江山の酒天童子を退治したことで有名である。
 また、三男の源頼信は河内国の壺井庄(現・大阪府羽曳野市壺井)に進出し、河内源氏の祖となった。
 この頼信の子と孫が奥州の後三年の役前九年の役で勇名をとどろかせた源頼義義家(八幡太郎)で、その子孫に源頼朝が出ることで、武士による支配の時代が幕を開けるのである。

 頼光四天王の渡辺綱は、嵯峨天皇の皇子で光源氏のモデルといわれる源融(とおる)を祖とする嵯峨源氏で、渡辺さんの始祖である。
 一条戻り橋で鬼の腕を切り落としたなど、妖怪退治の逸話で知られている。
 その一族、渡辺党が大阪の渡辺津(天満橋付近)に拠点をおいて栄えたことから、源氏が京都と難波(大阪)、丹波と瀬戸内海を結ぶ北摂(大阪府北部)を抑えることで、淀川(大川)の水運にも支配介入したことがうかがえる。渡辺氏から、後の松浦水軍の松浦氏が出たこともこのことと無関係ではないだろう。
  
 ここにあったという「蟻無宮(ありなしのみや)」は「野間神社」に遷したとあるが、現在も「蟻無神社」が残されていた。昔、神道集で読んだ「蟻通明神」と関係があるのだろうか。

 この大ケヤキの寿命が、資料館にあるとおりの1,000年だとすると、実に藤原道長の時代となり、それはさすがにないかもしれないが、この木が街道を馬で駆け抜ける鎧武者たちを見てきたことは間違いない。
 もしも彼女が言葉を話せたら、どんな歴史を語り出すのだろうかと思いを馳せずにはいられない。