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2016年11月23日水曜日

勝源院で龍に遭うこと(岩手県紫波郡紫波町日詰)

勝源院の逆さガシワ
樹  高 約15m
幹  周 6.9m(どういう測り方をしたのか不明)
枝  張 東西22m、南北28m
樹  齢 伝承700年
撮  影 H16年11月
国指定天然記念物


ご住職の奥様が参道の掃除に出てこられたのであいさつをし、秋田の大館からカシワの木を見に来たことを告げると、ご住職も秋田出身であることや、義妹が転勤で大館にいるのですよと、偶然の一致に驚かれていた。

規定の目通幹周の測定で日本一のカシワの木は、東北巨木調査研究会で確認している『上村のカシワ』(青森県三戸郡五戸町倉石)である。
しかし、また別な意味でこのカシワもまた他に類を見ない巨木に違いない。

勝源院の逆さガシワ』が国の天然記念物指定を受けたのは1929年(昭和4年)12月17日である。その年の出来事を調べてみた。
ニューヨーク証券取引所で株価が大暴落して世界恐慌が始まった。
東京駅の八重洲口が開設し、花園ラグビー場が完成した。
アンネ・フランクが生まれた。この年に生まれた人は2016年には87歳である―

国指定天然記念物の樹木じたい、そう多くはないのだが、カシワという樹種のみならば全国でこの木しかない。
指定を受けても永久にそうであるわけではなく、枝が折れる、樹勢が衰える、枯れ死するなどの理由で解除されてしまう木もある。
指定を受けてから90年近くの歳月を過ぎてなお君臨しているこの木のすごさがおわかりだろう。

この木の大きさを写真で伝えるのはとてもむずかしい。
地上からさほど離れぬうちに、巖のような太い幹から4本の太い枝に分かれているため、規定の幹周(地上1.3m)で測ると途方もない数字がでてしまいそうで意味がない。
全体を撮ろうとすると、そのあまりの広さゆえ、枝が細く感じてしまう絵しか撮れそうにない。

本当に、写真で見て想像していたよりもずっと大きく威厳のある銘木であった。
秋ではなく葉の生い茂った季節も素晴らしいのだろうが、葉の衣に隠されて、もしかしたらこの木の本当のすごさを知ることができなかったかもしれない。

本堂の裏に回り、墓地から庭園を見下ろした時、その大きさに思わずため息がもれてしまった。
案内板のとおりだと、枝張りは東西22m、南北28mということになるが、ちょっとした大型トレーラー並の長さである。
枝張りの規模がすごいというだけならば、日本一の影向(ようごう)の松も見たし、唐崎の松も見たが、ああいった温室育ちとは異なるこのカシワの持つ園芸を超えた猛々しさはなんだろう。

まるで山水画から抜け出た臥龍のようではないか。
隣の石鳥谷町にある『光林寺の三又カシワ』でも述べたように、あのカシワは、この逆さガシワから株分けした子なのではないだろうかと考えている。
10kmしか離れていない距離、共に寺の裏に庭園を設け、そこの主役として上に伸ばさず地を這うように育てられており、とてもカシワの自然木とは思われず他に類を見ないことを考えるならば、同じ庭師が手がけた可能性は十分考えられるのではないだろうか。

はるか昔に世を去ったはずのその庭師は、この2株しか世に残さなかったのだろうか。
立木のカシワをここまでに仕上げる技を受け継いだ者はいないのだろうか。
いまだ知られることなく、どこかの古い屋敷の庭園で、この龍の兄弟が眠っているかもしれないと思うとわくわくしてしまうではないか。

2016年11月9日水曜日

光林寺の巨木たちと-三又カシワ(三頭木)の謎(岩手県花巻市石鳥谷町中寺林)


光林寺に近づくと、まず2本の巨木が目を引く。他の巨木サイトでも紹介されているスギとサワラである。
しかし、ほとんどの方が裏の庭園にあるカシワを見逃しているのは残念に思う。

サワラとスギの実際の幹周はもっと細いように見える。目通幹周ではないのだろう。しかし、このスギの根張りはその胴に不釣り合いなほどどっしりと広がり、美しい。
サワラの樹勢はあきらかに衰えていて、元気なスギとは対象的である。

光林寺のスギ
樹  高 約32m
幹  周 6.85m
樹  齢 推定約300年
撮  影 H16年11月
花巻市指定天然記念物

光林寺のサワラ
樹  高 約32m
幹  周 6.6m
樹  齢 推定約300年
撮  影 H16年11月
花巻市指定天然記念物


光林寺の三又カシワ(仮称)※三頭木
樹  高 10~15m程度
幹  周 不明(目通1.3mを測ることは無意味)
樹  齢 不明(本堂裏の庭園を作った際に植えられたと思われる)
撮  影 H16年11月


さて、ここから北に10kmほどしか離れていない隣の紫波郡紫波町にある勝源院には、国指定天然記念物の銘木勝源院の逆さガシワがある。
勝源院の逆さガシワ
光林寺のカシワは、あの逆さガシワから株分けした子なのではないだろうか。

想像にすぎないのだが、現在の光林寺と勝源院の本堂裏にある2本のカシワは、一般的なカシワという木の形状とあまりにかけ離れていて、盆栽のような高い園芸技術で形が整えられた巨木ではないかと思っている。
しかも、スケールの差こそあれ、共に本堂裏の庭園の池に面して配置されていること、地を這いながら立ち上がる臥龍松のように形造られていることなどから、この2本は同じ庭師が手がけたもののようである。

ただ、2本のカシワには決定的に異なる点がある。
勝源院の逆さガシワは、1本は現在失われているが4本の枝を持ち、『光林寺の三又カシワ』意図的に三頭木にこしらえられたように見えることだ。

岩手県が、全国的に知られる毘沙門天信仰のメッカであること、東北巨木調査研究会の高渕会長が研究している『三頭木信仰』で、三頭木はシヴァ神や毘沙門天の「三叉戟」を表しているのではないかと推測していることについては「智福愛宕神社(藤里毘沙門堂)の大カヤ」(奥州市江刺区藤里)のところで触れた。

「木造兜跋毘沙門天立像(国重文)」のある『藤里毘沙門堂』をはじめ、三熊野神社の『成島毘沙門堂』(花巻市東和町)には4.73mと日本一の大きさを誇る「兜跋毘沙門天立像(国重文)」がある。
ほかにも『立花毘沙門堂』(北上市立花)の「木造毘沙門天立像(国重文)」、奇祭「黒石寺蘇民祭」で有名な『黒石寺』(奥州市水沢区)の「木造四天王立像(多聞天=毘沙門天)」、坂上田村麻呂が108体の毘沙門天を祀ったといわれる『達谷窟毘沙門堂』(西磐井郡平泉町)など、枚挙に暇(いとま)がないほどである。
 勝源院は境内が東西にのびているため、逆さカシワのある本堂裏の庭園は本堂に対して西にあるが、ここ光林寺は南北に配置されており、三又カシワは神木であるスギやサワラの北、本堂の鬼門に配されていることになり、北方を守護する毘沙門天の性格にも合致している。
庭師はそれを意識して三頭木に仕上げたように考えられる。

また、本堂の北北西、戌亥(いぬい)の方角には『熊野證誠殿』を護法神として配している。
熊野證誠殿
熊野といえば熊野所権現に本足の八咫烏(ヤタガラス)と、やはり「」に関連が深い社だが、特に『熊野證誠殿』について、熊野本宮大社の公式サイトではこう述べられている。

「第十代崇神天皇の御代、旧社地大斎原の櫟(いちい)の巨木に、三体の月が降臨しました。天火明命の孫に当たる熊野連(くまののむらじ)は、これを不思議に思い「天高くにあるはずの月が、どうしてこのような低いところに降りてこられたのですか」と尋ねました。すると真ん中にある月が「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚尊)であり、両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」とお答えになりました。この神勅により、熊野本宮大社の社殿が大斎原に創建されたと云われています。」

熊野は死者の参る国、黄泉を治めたとされる素戔嗚尊(スサノオ)の国である。また戌亥の方角は鬼の浄土といわれ、御伽草子の『一寸法師』でも退治された鬼が、
「極楽浄土のいぬゐの、いかにも暗き所へ、やうやう逃げにけり」
と戌亥の暗い場所に逃げ帰ったように、室町時代あたりには鬼が逃げ去る方角として認識されていたことがわかる。

つまり、鬼がやってくる艮(うしとら)の鬼門を三頭木のカシワ(毘沙門天)が守護し、さらに鬼の浄土である戌亥の方角に『熊野證誠殿』(スサノオ)を置き悪鬼を導くという、神仏が習合した時代ならではの護法のシステムとなっているのだ。

といろいろ述べてはみたが、これはあくまでこじつけである。ゆるされよ。
勝源院の逆さカシワ』は次回紹介したい。

2016年9月21日水曜日

日本一のクロビイタヤ―七座神社(秋田県能代市二ツ井町小繋字天神道上)

撮  影 H16年7月―9月
カエデ・モミジなどの仲間(カエデ属)が作り出す深い森の陰影(7月調査時)
今回確認された中で最大の幹周を持つクロビイタヤ(2.63m)

 Facebookと重複するが、所属している東北巨木調査研究会で調査していたカエデ属の希少種「クロビイタヤ」の群生地が秋田県内にみつかったため、マスコミへの公開調査と発表が現地で行われ、スタッフとして参加した。
 
2016年9月20日
秋田県能代市二ツ井町のクロビイタヤに関するニュース①
・秋田朝日放送トレタテ18:15~
秋田県能代市二ツ井町のクロビイタヤに関するニュース②
・NHK秋田ニュースこまち18:10~

 東北巨木調査研究会が調査してきた秋田県能代市二ツ井町(旧山本郡二ツ井町)の七座山周辺のクロビイタヤ(環境省レッドリストランク:絶滅危惧II類)について、調査測定・発表が行われました。
きみまち公園頂上あたりから臨む七座山と七座神社社叢(7月調査時)
7つの峰を持つ七座山と対岸の七座神社の位置関係図

 マスコミにも呼びかけたところ、読売新聞・毎日新聞・秋田魁新報社それに地元の北羽新報社と、NHK秋田放送局、秋田朝日放送による取材がありました。
 当会からは会長の高渕英夫と、樹木医でもあり、クロビイタヤの繁殖も手がけている釜淵一知理事、小沢純二理事、岡本喜栄作理事他、青森・秋田両県の会員数名が参加しました。
 生物多様性論・保全生態学の専門家として、筑波大学准教授で、「希少樹種クロビイタヤ(カエデ属)の遺伝構造と景観特性との関係」を研究テーマのひとつとされている、佐伯いく代准教授にも参加いただきました。

対岸の七座山から見た七座神社の社叢
米代川は、雄物川と並び秋田県最大にして東北を代表とする河川のひとつですが、この北緯40度が生態系の分岐のラインであることはあまり知られていないように思います。
 わたしの知る限りでは、日本ではウグイと並んでよく知られるオイカワという魚は日本海側では雄物川が最北で、米代川では見かけませんし、大館市はニホンザリガニ生息地の最南端です。
 また国土交通省が発表した調査資料によると、米代川の流域に生息する両生類の種類は国内で最も多いことが発表されています。(※全国31河川調査中1位:「平成15年度河川水辺の国勢調査について」)


 今回保存状態の良好なクロビイタヤの群生地として確認された、七座山麓と対岸の七座神社の社叢は、すぐ上流で森吉山のある阿仁・森吉地域から流れる阿仁川が、小猿部川と小阿仁川を取り込み(このことから合川という地名が起こった)、米代川と合流し流量が増大する地点で、このすぐ下流のきみまち阪で、白神山地から流れる藤琴川と粕毛川も取り込むという、おそらく1000年2000年単位で見ても水が枯れることがなかっただろうと推測される場所です。
七座神社と豊かな社叢を守り続けてきた嶺脇勉宮司。拝殿脇の神木もクロビイタヤ

 佐伯准教授も、各地にわずかに点在するこの樹種が生きながらえた地域の特徴として、
 ①湿潤であること(水の補給が常に確保されうること)
 ②寒冷であること
 ③側に河川などがある緩やかな傾斜地などであること
などを挙げられていました。
佐伯いく代筑波大学准教授
また、この七座山を越えた仁鮒地区の最奥には全国でも最大級の天然杉の保護区である「仁鮒水沢スギ植物群落保護林」があることや、北には白神山地の南の玄関口である藤里町があることなど、まだまだ多様な生態系が残されている可能性をわたしたちに再認識させてくれたのではないかと思います。
 クロビイタヤという樹種じたいは、杉やケヤキのように巨木と呼べるほど大きく育つ木でもなければ、長い寿命を持つ木でもありませんが、当会会長の高渕も、
「このことが多くの人に知られることによって、関心の輪が広がり、少しでも希少な樹木を維持していくことの大切さが理解されることにつながることこそがわれわれの一番望んでいることです」
と語ってくれました。
高渕英夫「東北巨木調査研究会」会長

▲測定状況。目通り(地上)1.3mの幹周を測定
クロビイタヤの翼果(種)の形状について説明する釜淵一知理事(樹木医)

▲一般的なイタヤカエデの翼果(左)と、ブーメランのような形状のクロビイタヤの翼果

 こういう活動に参加できたことをうれしく思います。参加した関係者の皆様ありがとうございました。

※報道では、14本のクロビイタヤと紹介されていますが、マスコミが去った後に継続して調査をしたところさらに1本確認されましたので、正しくは七座神社社叢に11本、対岸に4本で、計15本を確認しました。
  

七座神社社務所裏にある境内で最大のケヤキ(幹周6.3mを確認)をはじめ、広大な社叢には他にも貴重な樹種が数多い。


〈七座神社について〉

 七座天神ともいわれ、現在は日本書紀にある神代七代の十一柱七代の神のうち、最初の三神
国常立尊、国狭槌尊、豊斟渟尊
に加え、
伊弉諾尊・伊弉冉尊・菅原道真尊
を祀っている。

 日本書紀にある斉明天皇4年に阿倍比羅夫が蝦夷懐柔のために訪れた際に、齶田(アギタ)・渟代(ヌシロ)・肉入籠(シシリコ)火内(ひない)―それぞれ秋田・能代・綴子(北秋田市鷹巣)・比内(大館市)といわれている―などの地名が登場するが、この七座神社にも船を繋いだという。

 十和田湖・八郎潟・田沢湖の3つの湖の創世を伝える秋田の国引き神話「三湖伝説」の主人公、八郎太郎が米代川を堰き止めようとして七座天神に阻止された、また米代川の水中の巨石は八郎が投げ入れたものだなどの伝説も伝わる。

 また、織田信長の次男、織田信雄が秋田に流された際に帰還を祈願したともいわれる。(『伊頭園茶話』久保田藩士 石井 忠行 著)

2016年9月3日土曜日

玄奘三蔵霊骨塔―「華林山 最上院 慈恩寺」(さいたま市 岩槻区表慈恩寺)

撮  影 H16年1月

 玄奘三蔵の骨が日本にある。孫悟空、沙悟浄、猪八戒と天竺へ向かったあの三蔵法師だ。
 もちろん『西遊記』は玄奘が著した『大唐西域記』をもとに、1,000年ほども後に成立した空想小説だが、過酷なシルクロードの旅は紛れもない事実である。 


経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に通じている僧侶は「三蔵法師」と呼ばれ、名前に「三蔵」を付して尊称する。特に、インドから中国へ大量の経典を持参した人や、経典を大量に訳した訳経僧に付した。著名な三蔵法師としては、玄奘三蔵がいる。―Wikipedia

とあるように、「三蔵」は固有名詞ではない。
 日本人で「三蔵」の資格を有した僧は、平安時代の法相宗(玄奘の弟子が開祖)の霊仙(りょうせん)ただ一人である。
 霊仙は、空海最澄と同じ第十八次の遣唐使船で渡海したが、ついに唐から戻ることがかなわなかった。
 唐で梵語(サンスクリット語)の経の翻訳をして「三蔵」となったほどの学才である。もし戻っていれば日本の仏教史が大きく変わっていたかもしれない。
霊骨塔

 聖者の骨を舎利と呼ぶ。仏舎利塔は本来は釈尊の遺骨(の粒)を分骨して納めたものだが、一人の人間の骨なので量には限りがあり、仏舎利塔にあるのは水晶だったりもするという。
 仏舎利についても、ある寺では何年かおきに取り出して数えるが、その粒の数が世の盛衰により増えたり減ったりするとかいろいろ興味深い話もあるらしい。

 法隆寺の仏舎利すらも本物ではないようで、日本にある仏舎利で本物の釈尊の骨であることがほぼ確実といわれるのは、シャム(現在のタイ)国王から友好のしるしに拝受したものがあるという、名古屋市千種区法王町にある『覺王山 日泰寺』(旧 日暹寺・・・シャム(暹羅)がタイ(泰)になり改めた)のみともいわれる。

 さて、その仏舎利のように玄奘の骨が日本に伝わっているのである。その経緯は、大日本帝国時代の南京までさかのぼる。
 慈恩寺のHPにはこうある。
 昭和17年12月、第二次世界大戦のさなか、南京を占領していた日本軍が、中華門外に駐屯し、稲荷神社を建立しようということになり丘を整地していた時に、石棺を発見しました。
石棺には宋の天聖5年(1027)に三蔵法師の頂骨が演化大師可政によって長安から南京にもたらされたことが記されていました。日中両国の専門家が調査の結果、玄奘三蔵法師の頂骨そのものであることが確認されました。
中国では偉大な人物や国王の墓に、数々の価値ある副葬品が収められるのが通例であり、盗掘が行われ、墓が荒らされたままであったことが南京への葬られたことの原因と考えられます。
発見の翌年、頂骨は仏像・銀・錫製の箱等の副葬品と共に南京政府に還付されました。翌昭和19年には、南京玄武山に玄奘塔が完成し、盛大な式典が行われました。

玄奘塔完成の式典の際、「法師は仏教の一大恩人であり、日中の仏教徒が永遠に法師の遺徳を大切にしよう」という趣旨で分骨され、日本仏教徒代表の倉持秀峰氏に手渡されました。こうして霊骨は日本にもたらされることになりました。
来日した霊骨は当初、仏教連合会の置かれていた東京、芝の増上寺に安置されましたが、第二次世界大戦末期、東京では空襲が始まっており、万が一灰燼に帰することがあってはならないということで、一時は倉持会長の住職寺である蕨市三学院に仮安置されました。

しかし、三学院も東京に近く、安全が計り難いということで再度、日本仏教連合会では疎開先を検討し、慈恩寺に仮奉安することになりました。当山の第五十世大島見道住職が、日本仏教会の事業部長であったこと、慈恩寺が平安時代に慈覚大師の開基であり、三蔵法師ゆかりの長安の大慈恩寺からその名をとって慈恩寺と名付られた由来もあり、歴史と格式のある寺院だったことが慈恩寺に奉安された理由と考えられます。
昭和19年12月、寛永時に於いて日本仏教連合会主催の下に、日中各界の有志の臨席を得て、法要を行った後、慈恩寺檀信徒の恭迎の中、慈恩寺に奉安されました。

昭和20年に我が国は終戦を迎え、仏教連合会では、いわゆる疎開先であった慈恩寺から正式な奉安の地を決することになっていましたが、国民の生活も安定しない時勢でありましたので、そのまま昭和21年を迎えました。しかし、戦時中に中国政府から贈られた霊骨ではありますが、戦時下の事で、このままで良いのか・・という問題が提起されました。
この頃、慈恩寺に寄宿しておられた仏教連合会顧問の水野梅暁師が新中国の蒋介石主席と親交もあり、主席の意向をお伺いすることになりました。
昭和21年12月、霊骨奉安3周年記念法要の際、蒋介石主席の意向が伝えられました。
「霊骨は返還に及ばないこと、むしろ日中提携は文化の交流にあり、日本における三蔵法師の遺徳の顕彰は誠によろこばしいことであり、しかも、奉安の地が法師と何等かの因縁の地であるからは、この地を顕彰の場と定めては」
との意向であり、こうして正式に慈恩寺の地に霊骨塔建設が決定したのであります。

 つまり元々伝承として、盗掘を恐れ長安から南京に玄奘の「頭骨」が遷されたことは知られていたが、南京に駐留していた日本軍が掘り当てたというわけである。
 日本に分骨されたものが、奈良の薬師寺や台湾の日月潭にある玄奘寺などにもさらに分骨されている。

 玄奘が長安の大慈恩寺から天竺(インド)へ向かい、『大般若経』(般若心経はこのエッセンス的な部分)を持ち帰り翻訳したことは結構知られているが、遺骨の一部が日本にももたらされたことやその理由はあまり知られていないのではないか。
 宗派を超えた存在なので、このことはもっと知られていいことではないかと思う。

〈余談〉
 玄奘以前にサンスクリット語から翻訳された経典を「新訳」と呼び、最初の三蔵法師である「鳩摩羅什」による翻訳のものを「旧訳(くやく)」と呼ぶらしいが、これは例えば観音菩薩を「観世音菩薩」とした旧訳に対して、玄奘が「観自在菩薩」と訳したことなどの違いがある。

 関東のあちこちで見かける「寛永寺灯籠」がここにもあった。明治になり、徳川の菩提寺であった広大な東叡山寛永寺が、上野恩賜公園として整備され寺域が大幅に縮小された際、各地の大名などがこぞって寄進していた膨大な量の石灯籠を各地に譲り渡したらしい。
 今も公園内の上野東照宮清水観音堂などにたくさん残っている。
 都内を歩いているとこの特徴のある形の石灯籠をよく見かけるが、埼玉まできていたとは・・・。